☆神の武具を身につけ敵からの攻撃に備えよ 後半 エペソ6章10-24節 2021 .2 .7 礼拝メッセージ
6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
そしてパウロは次に、胸当てとして「正義」を身につけなさい、と勧めています。胸は私たちの心のことを表しています。そこに悪魔は、絶えず私たちを告発しています。「お前は、このようにクリスチャンとしてふさわしくない歩みをしている。ほら、こんなことを行なっているだろう。あんなことを思っているだろう。だからお前は、クリスチャンらしくないのだ。」とささやきます。そして、悪魔は、私たちを、あらゆる宗教的行ないに駆り立てるのです。「ああ、もっと祈らなければいけない。」「ああ、もっと聖書を読んで、神に近づかなければいけない。」「伝道しなければ。」という焦りを作ります。そして、私たちをまんまと、行ないによって神との関係を結ばせるような状態へと引き込むのです。
しかし、それは真っ赤な嘘です!私たちは、律法の行ないではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められたのです!私たちの罪はすべて、キリストの十字架が取り除いたのです。神は、私たちの過去の罪、現在の罪、そして将来犯すかもしれない罪をすべて、キリストの十字架の血潮で、洗いきよめてしまわれました。「わたしは、もうあなたの罪を思い起こさない。」と言われています。それだけではありません。私たちは、もうこれ以上、正しくなることができないほどの完全な義を身に着けています。キリストの義です。私たちが何かの行為によって、神に受け入れられ う、神に近づこうなどとする必要は一切なく、私たちは、ただキリストの恵みによって救われています。
質問:堅く立つことができるように神の武具とはなにか?7つ
1,腰には真理の帯
2,胸には正義の胸当て
3,足には平和の福音の備え
4,手に信仰の大楯
5,頭に救いのかぶと
6,手に御霊の剣
7,絶えず御霊によって祈る
4、信仰の大楯とは=イエスキリストは私の信仰
ガラテヤ人への手紙2章20節
「2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
①イエスキリストこそが私の信仰の対象である。信仰の主である。私達を完全にされるお方である。この方が私達の信仰の源である
②火矢 とは 火の矢とはどこに飛んでいくのか、自分の周りに飛ばして、周りの環境を燃やす為、
自分に飛んでくる火矢でなく、敵は環境を燃やそうとする。サタンは私達の身近な環境を燃やして恐れるように狙ってくる。
神のことばを信じていろんな環境の出来事に動揺して揺れ動かないこと。
み言葉の種を良い地に植えることで、種は成長する時に根が深く張っていく、根が張ればそう簡単に木が倒れないようになる。そしてどんな木よりも大きくなる。
武漢コロナウイルスで沢山の感染者 死者が出ている。
しかし詩編91篇のみ言葉で対応しよう。
91:3 主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。
91:4 主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実
大盾であり、とりでである。
91:5 あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。
91:6 また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。
91:7 千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れてもそれはあなたには、近づかない。
91:8 あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。
91:9 それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。
マタイ8-23~「嵐の中でも平安」
8:23 イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。
8:24 すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。
8:25 弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」
8:26 イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。
8:27 人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」
第一コリントの10-13
10:13 あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。
5,頭に救いの兜=イエスキリストは私の救い主
ヘブル人の手紙5-9
5:9 完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、
1,救いとは罪や、病、失敗 失望から助けられるという意味
2,私たちは罪から解放され神様の聖霊が共におられるので私達は健康な者 神の祝福を受ける物 天国の市民、全ての面で恵みを受けている幸い者である。
3,救いの兜とは 洪水のように溢れている世の情報から私達の思いを守り、救いの兜によって、頭が保護されると世の価値観に対して神の国への価値観が守られます。神様の価値観で歩むときに主の勇士となり、人生を神の国の為に捧げる者に変えられて主と共に歩むことが出来る。
4,イエスキリストを私の救い主と告白していく時に神様は救いのかぶとをかぶしてくださる
※これまでの武器は防御の物でしたが剣は敵に攻め込み相手を倒すための攻撃用です。
私たちは守りだけでなく魂の救いの為に敵の陣地に攻む者でなければいけない
一番の相手とは
サタン 暗闇の勢力 悪霊 人の価値観 頑固な心の思い
コリント2
10:4 私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。
6,手に御霊の剣 イエスキリストは生きている言葉
※これまでの武器は防御の物でしたが剣は敵に攻め込み相手を倒すための攻撃用です。
私たちは守りだけでなく魂の救いの為に敵の陣地に攻む者でなければいけない
質問:どこに切り込んでいくと思いますか 一番の相手とは誰だと思いますか
A:サタン 暗闇の勢力 悪霊 人の価値観 頑固な心の思い
イエスキリストの生きているみ言葉
ヘブル4章12
「4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」
ヨハネ6-63
「6:63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」
イエスキリストによって悪霊よ出ていけ!御霊が働かれる
①御霊の剣はすなわち神の言葉である。御霊は神の言葉と共に働かれる。
マタイ4章1-11
イエス様もサタンにたいしてみ言葉で勝利された。
7、絶えず御霊によって祈る 目をさまして 聖徒の為に=祈りは神のみ手を動かす
エペソ
6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
コロサイ4章2節
「目を覚まして、感謝を持って、たゆみなく祈りなさい。」
律法の下ではこの御霊に導かれる祈りは出来ない
我力の信仰が伴い、明け渡してないので御霊が働けない
御霊に導かれてお祈りとは、御霊みずからお祈りを導く祈りです。
まず自分を全て御霊に明け渡たして、自分の人生に聖霊様に来ていただく
そのうえでお祈りしていく時に御霊によってお祈りするように導かれていくようになります。
イサクをささげたときにアブラハムは従った。そのあとに神様はアブラハムを祝福した。神様が来て下さったのです。イサクをささげることはできないので、信仰の告白で明け渡す、または捧げることがキリストによって可能となったことは恵みであると同時で、この恵みをいつも私達の信仰に当てはめていくことです。律法の下ではこの恵は味わえない、ですからここで御霊という用語を強調してパウロ先生は使っていると私は思います。
◎どんなときにも祈りなさい
どんなときにも御霊で祈りなさい
◎絶えず目をさましていてとは
眠っているクリスチャンとは祈らないクリスチャン 教会に礼拝に来ていても祈らないクリスチャンは眠っていることになります。絶えずお祈りすること、
◎忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
コロサイ4章2節
そして「忍耐の限りを尽くし」祈りなさいとあります。忍耐とはこれは辛抱して祈り続ける、と言っても良いでしょうか。なかなか祈りが聞かれないので、祈ることをやめてしまうことがしばしばありますが、それは霊の戦いにおいては禁物です。ダニエルが祈っていたときのことを思い出してください。彼は三週間祈っていました。そうすると、御使いがやって来ました。ダニエルの祈りが聞かれたのです。けれども、その御使いはダニエルに、ペルシヤの君が自分に立ち向かって立っていた、と話しています(ダニエル10:13)。ペルシヤの君とは、ペリシヤ国を支配する悪霊のことです。ですから、私たちが祈るとき、そこでは壮絶な霊の戦いが繰り広げられていることを知る必要があります。そのときに必要なのは、忍耐の限りを尽くすような、しつこい祈りです。
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