☆神の武具を身につけ敵からの攻撃に備えよ! エペソ6章10-24 2021年1月31日礼拝メッセージ
エペソ人への手紙6章10~
6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
質問:
①大能の力とは
②私達の戦いとはだれですか?
③悪魔の策略に遭ったことありますか?有りましたら心当たりのあることを話してください。敵を知ることは大切です。
④信仰を守る神の武具とは何か?聖書から答えてください。
1,腰に真理の帯
イエスキリストが真理
ヨハネ14章6節 「14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
腰は体の最も大切な部分、ここを締め直して毎日生活をしていくことです。生活の中心にイエスキリストを置くなら生活も信仰生活も安定するはずです。
生活で最もたいせつな部分は経済ではなくイエス様を中心において生活することです。帯がゆるゆるなら服が脱げてしまい歩けなくなってしまいます。毎日締め直していくならば、姿勢もよく服も着心地が良く歩きやすいですね。毎日聖書を読み帯を締めなおしてから一日を始めること、イエス様を中心において生活をしていくならば、敵からの攻撃を受けても、簡単に倒れないでしっかり歩めます。恐れ、不安、思い業来からからも守られ解放されます。信仰に立ってしっかり歩めるようになります。
2,胸に正義の胸当て
2コリント5章21
「5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」
イエスキリストの流された血潮によって私達の罪が赦され、救われ、神様の前に義とされたことを信じる信仰を持っていくこと、いくら罪を犯していても罪はイエスキリストにより赦されているのです。
悪魔は、私たちの「心」すなわち「良心」を攻撃してきます。私たちの弱さ、欠点、失敗、過ちを見つけ出し、私たちを責め立てるのです。黙示録12:10。
必要以上の「罪責感」を持たせ、罪の意識で苦しめます。そして、神に愛され、受け入られる価値がない、恵みを受ける資格がないことを訴えます。
そのようにして、私たちを「ダメなクリスチャン」と思い込ませ、私たちのセルフイメージを低くし、不健全なものにするのです。悪魔は、神に愛され祝福されているクリスチャンを妬み、憎んでいます。私たちに神の愛と救いを疑わせ、そこから私たちを引き摺り下ろそうとします。そして、私たちから喜び、平安、希望を奪い取ろうとするのです。しかし、悪魔は、嘘つきであり、偽り者です(ヨハネ8:44)。悪魔のささやきに耳を貸したり、惑わされたりしてはなりません。
そのために、私たちは「正義の胸当て」を付けなければなりません。聖書での「正義」とは、単に道徳的、法律的に「正しい」というだけではありません。聖書の言う「正義」とは、「神との正しい関係」にあることです。私たちが神の前に正しいということ、すなわち義と認められているということです。私たちは、行いによってではなく、信仰によって、「義と認められ」ました。ガラテヤ2:16。今、イエスの内にある私たちは、「義」とされています。ローマ8:1,33,34。
確かに、私たちには、弱さ、欠点、失敗、過ちがあります。しかし、それにも関わらず、神は、私たちを「義」と認めて下さっているのです。自分の感情や感覚、周りの状況、人の言葉によって惑わされることなく、信仰によって「義」とされ、神の子とされていることを確信しましょう。(また、もし罪を犯してしまったなら、すぐにそれを神の前に告白し、悔い改め、神からの赦しときよめをいただきましょう。
※Ⅰヨハネ1:9。(HPより)
3,足に福音の備え
イザヤ52章7節
「52:7 良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる。」とシオンに言う者の足は。」
ローマ10章14~18
10:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
10:15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
10:16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。」とイザヤは言っています。
10:17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
10:18 でも、こう尋ねましょう。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。」イエス・キリストは、私達の一生を平安に生きることが出来るように道を備えてくださった。それは律法の靴でなく福音の靴です。私たちは律法の下に生きる者から、福音の命恵みの下で生きるようにされました。律法の下だと古い自我が出てきてしまい、自分の行いを誇ったり,人の批判は古い自分が生きていることであり、「ねばならない」信仰です。恵みの下に生きるとは、イエス様の命に生かされて御霊に導かれる生き方です。「~したくなる信仰で喜びが出てきます。」「伝道がしたくなる」「教会に行きたくなる」「人を愛したくなる」「家族をもっと愛したくなる」その生き方こそ恵みの下で生きる生き方です。恵みの中で生きると毎日が喜びのある信仰生活が送れます。この福音の靴を毎日はいで出ていきましょう。そして足に福音の備えとあるように、いつでも福音を語れるように備えておくことも大切なことです。ここからのメッセージとして受け取ってください。
댓글